2026年7月16日(木)重いものを持ち上げる祭
(以下、調べれば正確な用語にできるものや訂正できるかもしれない誤りをそのままにしています。初日のフィールドノートのラフさだと思ってください)
祇園祭について下調べしている時に、それが「日本三大祭」だという説明を読んで、ちょっと苛立たしさを感じてしまった。私は静岡県浜松市出身で、ゴールデンウィークには市のほとんどの町が参加する大規模な凧揚げ合戦が開催されるが、やはり田舎は入れてもらえないのだろうか。けれど、祇園祭の現場を見てみて、三大祭という表現は不正確だが誤りではないと思うようになった。
4月に京都に引っ越してきて、祇園祭を見るのは初めて。
バスは、祇園祭の交通規制のため、いつもと違う道を通って市内中心部に向かう。四条大宮のあたりに行くと「意外とみんな普通に生活している」と感じた。今は平日の午前中なのだった。
この日は仏教美術の先生と美術史の院生ともに、鷹山の組み立て現場を見学させてもらいにきた。組み立て初日の午前で、山鉾上部の最も基礎的な骨組みが立ち上がったばかりのところらしかった。Geminiの見立てではこの段階で2トンくらいある。いろんな番号が書いてある木がたくさん積んであった。どこに保存してあるのだろう。
20人くらいの作業服の男性が動いていた。みんなプロの格好して、プロ的にキビキビ動いている。昨年取り付けたところに印がついているとかではなく、測量しながら設営しているし、細かな作業表があったりした。大きな柱同士を麻の縄で、つまり釘でもなくプラスチックの紐ではなく、固定していく。麻の縄でちゃんと柱を固定することだけでもとても力が要りそう。専門家でないとできない仕事だった。
そのうち、作業場の前の車道にぎりぎりの大きなトラックで、大きな柱が二つ運ばれてきた。船でいうところの竜骨に相当するものらしい。一本800kgくらいはありそう。そのトラックに付随のクレーンではなく人の手で持ち上げることが想像できない。
柱は年季が入っている。鷹山は近年復活した山鉾だった。鷹山は江戸期の巡行の際、雨に振られて懸装品がダメになってしまった後、どんどん焼けの時に山鉾が焼失してしまって、しかし2022年に復興している。大きな柱は他の山鉾から譲り受けたらしい。今使っている車輪も他からもらったもので、いつ壊れてもおかしくないので今はクラファンに取り組んでいる。目標金額は1200万円らしい。
作業が行われているのは復興を率いた、保存会の元会長の会社の敷地だった。4階建ての実用的なビル。駐車場かと思ったら、一階の奥のほうに抜ける通路があり、そちらに車が停まっているのが見えた。だとすれば、この作業場は山鉾を組み立てるために確保したのか……?と思ったが、建物は1990年台の雰囲気があるし、復興は最近なのでさすがに違うだろう。
というか、他の山鉾は一体どこで組み立てているのだろうと思った。山鉾がある通りは基本的にオフィスビルや飲食店が並ぶところで、駐車場的なものはない。少なくとも、すでに組み上がった山鉾は道路の真ん中を占領していた。それでも、大通りでない内側の通りならばそれも理解できるけれど、四条通や烏丸通を挟む団体はずっと道の一車線を塞いでいるということだろうか。
普段烏丸通を歩いていると、オフィスビルの間にポツンと古い家屋があることには気づいていたし、その門のところに文化財的な建物の前によく立ててある看板を読んだことがあった。その山鉾、孟宗山もその日は建物を開放していた。入ってすぐのところには、孟宗山や、その御神体の由来を説明するパネルが設置されている。さらに奥には御神体が飾ってあって、数人のおじさまがちまきを売っていた。仏教美術の先生が、飾られている懸装品を見て平山郁夫かしらと呟くと、果たしてそうであるらしい。昭和以降の画家とはいえ、祭りのための集会場に何気なく平山郁夫が飾ってあるものなのか。美術品だ。孟宗、つまり筍をモチーフにした山鉾であるためか、小さな竹林が設えてあった。三面をオフィスビルに囲まれた薄暗い場所に一角に竹林がある。町内会費で固定資産税を賄えるのだろうか。
他の山鉾もビルの合間の路地を奥に入ると、突然神社めいた建物や小さなお社が現れる。ガラスケースの向こうには、1880年台に作られたという華美なタペストリーがある。端の方はほつれている。普段は京都国立博物館に寄託されているという日本刀がある。かと思うと、2011年に作られた三十六歌仙絵巻の懸装品がある。誰かがそれを作る技術を守り続けているということを意味する。
その山鉾のところでは8人くらいの人たちがちまきを売ったり案内したりしていたが、おそらく全員がこの通りの住人や、ここにオフィスを構える会社の従業員というわけではないのだろう。大学でもボランティアスタッフを募集する張り紙を見たことがある。米山俊直『祇園祭——都市人類学ことはじめ』(国会図書館の個人送信サービスで読める)によると、1970年台ごろからすでに、一つの山鉾を共有する単位が10世帯以下のところもあったし、アルバイトによって運営は補助されていると書かれていた。そういった組織運営はもう手慣れたものなのだろうか。
翌日には山鉾の巡行を見たが、そこで行進している人たちは詰所にいる人たちともまた雰囲気は違った。また別でアルバイトを募集しているのかもしれない。観客は、おそらくそのために植えられた欅の木陰で見ていればいいが、7月の真昼の京都を行進するのはそれだけでものすごい仕事だから。白化粧をしたお稚児さんは、神様の遣いとして、健気に手を振っていた。みんな真昼でシラフで、どこにも酒が売っていなかった。
祇園祭は私が知っている祭と比べてとことん重い祭だと感じた。
凧揚げ合戦に参加するそれぞれの集団は、町単位で運営されている。小学校の学区を三等分したくらいの範囲が町で、子供で言うと一学年40人くらいはいるはず。それなりに住民数があって、何かのたびに顔を突き合わせることになる人たちの集まり。大人も子供も公民館に集まってラッパや太鼓を練習する。
その祭りは初子の誕生を祝うもので、夜は小さな屋台を引きながら町内を練り歩いて、初子の家の庭や前でラッパに合わせて集団がぐるぐる回る「練り」をしてオードブルを食べる。昼は、浜の隣にある大きな公園にすべての町が集まって、初子の名前が書かれた凧と町の名前が書かれた凧をあげる。凧の大きさは3m×5mほどで、子供や大人みんなで綱を引き、それをラッパで囃し立てる。初子の凧ではやらなかったはずだが、町の名前の凧では綱切り合戦的なものが行われる。凧の綱同士を絡ませて、互いに綱を切るものらしい。綱切り合戦は大人のもので、私は子供の頃しか祭りには関わっていなかったので詳細はよくわからない。それでも、海沿いの広々とした空に100以上の大きな色とりどりの凧が上がるのは単純に嬉しかった気がする。お金について聞いたことはないが、初子の家がそれぞれ作ったり、綱切り合戦で落ちて壊れることが許容できる程度のものだったのだろう。浜松には当然専門家がいるが、竹と紙で作られる凧なのだ。
ともかく、祭のために維持されている集団があるというより多目的な集団の一つの活動が凧揚げ合戦で、やっぱり子供の誕生はめでたいし、ラッパをBGMに「練り」をするのはアガるし、糸切り合戦は多分盛り上がるし、お酒をたくさん飲めば楽しい。日々の学校や仕事の感じではない。そういえば、凧揚げ合戦の意味は聞いたことがなかったと思う、確か城主の子供の誕生を祝うためだったとかだったかもしれないが、それが話題に上がったことはない。というか、だいぶ発祥さえだいぶ世俗的な話だな。
祇園祭は、ほとんど祇園祭をやるという単独の目的のために集まった大きな組織であり、アルバイトや専門家をたくさん雇って運営するために保存会が日夜奔走しなければ維持ができないだろう。仕事だ。人員やお金がたくさん必要なのは、まず山鉾が大きくて重いから。御神体や懸装品も管理しなければならないし、それらは雨に濡れたりすればだめになってしまうけど、すべてを新調できないほどではない。それらを保管する建物は、田舎のようにただ同然ではないが、ないことはない。神事にまつわるいろんな意味があり、真夏の疫病に際して生まれた行事でもあり、日本の中心である京都が担ってきた伝統がある。
すべての装飾も含め、完成すれば3トン以上はありそうな、歴史そのものを体現するような造形物が立ち上がることにはやはりそれに特有の高揚感があるだろう。凧なんて風に舞うようなものをあげて、酒を飲みながらラッパを吹くのとは全然違う。祇園祭が日本の中でも相当重いものを持ち上げる祭だ、ということは確かだと思った。三大祭であるのかはわからないが三重祭の一つであることに疑いはない。