2026年7月24日(金)概念を握って使う
期待が高かったのですぐ読まなかった本が期待外れだった。
まず、不要な文章や語などが多い。前に書いたことをほぼ繰り返す文章、議論に入る前の投げかけ、いらない副詞、反語、傍点による強調、不要な改行。それほど文字数の制限がない書籍という媒体であることを考えても、あまりにだらっとしている(だけど、もしかして、そんなにぐだぐだ書いてあげないと読者は読んでくれない、ということなんだろうか)。
次に、概念に振り回されている。強い言葉で書こうとしている物事を不用意に切り分けてしまっていたり、用語自体を長々と検討して論脈が失われてしまったり、逆にそうした言葉を呼び出すことをもって記述や論証を省いたりしている。文章内に漢語が多く、和語の動詞が少ない、ということにも言葉の重さに屈している兆候が現れている(とはいえ、物事を学問によって捉えようとする人は、そもそも言葉に振り回されることや漢語を使うことを好む傾向があるのかもしれない)。文章内には、ちゃんと書けばもっと面白くなる事柄がたくさんあったのに。ある章と別の章の議論では異なる概念群が使われているが、私の目にはそれらを共通した言葉で記述することができるように思われた。最終章でそれらを統合するのかしらと思っていたらそうはならなかった。
このように並べてみて、余計な装飾をたくさん置いてしまっているから重い言葉のなすがままになっているのかもしれないと思った。文章の総体としてはある程度書かれるべきことを把握しているように見えるが、どの文章や概念がきちんと現象を捕まえるのに必要で、どれが効いていないのかわかっていない。いらない部分を削ぎ落として少ない概念に重さを預けてみれば、どの用語がうまく働いているかきっとわかったはず。その結果として、概念が握らずに使われることになる。
翻って、私自身は言葉をうまく掴んで使っているのか、ということを考えざるを得なくなる。仮に現在は必要十分な仕方で用語を用いていることができているにしても、それができるようになったのは『新潮』でのエッセイの連載と、博論の最終章を書いた頃以降であって、これ以前に書かれた文章、例えば時期的にはそれらのすぐ前に発表されたノーマ京都のレビュー( https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/noma-kyoto-review-202304 )を書いたときには雑に概念を並べていた、と思う。比べてみると、エッセイの連載も博論の最終章は時系列や論述の枠組みに沿っていない文章、あるいはそうしたものを意図的に放棄しようとして書かれた文章であって、ノーマ京都のエッセイは料理を提供された順番で並べたものであった。言葉に振り回されていた本もまた、普通に物事について話す順番で章が展開していた。確かに、情報を並べる枠組みや順序を一旦忘れて、対象に即してそれらを組み直す、というのは、だんだんできるようになってきたとはいえ、とても難しいことだろう。
この本が期待外れだったというより、これが称賛される現状に動揺しているように思う。第一に、もっとすごい著者がいるはず、って夢見ていたかった。そして、自分の文章が受け入れられるか不安になる。私の議論に新規性があるということで、論文を書く余地はあるわけだが、エッセイに違和感を持たれるのは嫌だ!
追記 概念を握って使えるようになった以降の文章でインターネットで読めるものが少ない。以下の展示評はそのひとつだろう https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/hiroto-tsuda-review-202505