2026年7月26日(日)概念を握って使うことには興味がない?
昨日まで読んでいた本が重要な理論的な支柱として参照していた本を読んだ。以前読んだことがあったけれど、まったく印象が変わってしまった。端的に言えば、同じように言葉に振り回されていて、概念を握って使っている感じがなかった。
これを「二人とも馬鹿だから」で片付けるのは簡単だろうが、それは見切りが雑すぎる。二人とも優れた部分が多い著者である以上、「単に概念を握って使うことに興味がないから」と考えた方がいいだろう。さらに言えば、「そうやって言葉を扱う体験が意識化されることが稀であった」とか、「学問領域としての慣習が違う」とか考えた方がよっぽど得るものが多い。
そう思って考えてみると、確かに、哲学ないしその近接領域は概念を握って使うことより、概念を完成させて、それをできる限り遠くまで行かせることの方に関心がありそう。もちろん、誰かが不完全なままにした概念を叩き直してより良い概念を作る、ということはやっているだろうけど、むしろ手綱を離して自立した概念を生み出すことを求めているような気もするし、良い概念/悪い概念 が 上手い読解/下手な読解 に仕分けられていそう。
対して人類学は、どれほど概念がある状況に位置づけられたものでしかないかということを自身に延々と言い聞かせてきた学問で、異なる概念は異なる状況に対応づけられることが基本の一つにあるはず。どんなふうに自分たちが概念を握って使ってしまっているか、ということをずっと人類学者同士で言い合ってきて、(それをもって「だから人類学は根本的にダメなんだ」という人でない限り)うまく概念を握って使おうとしてきたように思う。
同様に対比すれば、哲学が完成した概念を作って、それがどんな時でも使えるようになる、ということに嬉しさを感じているとするならば、人類学は概念がうまく行ったり行かなかったりする時を見つけて概念を握り直す、それに応じて状況を分け直す、ということがプログラムに組み込まれている気がする。当然、人類学にも完成した概念で全てを語って終わりにしたい人はいるけれど、だいたいは言葉がうまく行かない状況を探すことが強く動機に組み込まれている。
……いや、これは私の定式化した人類学に近すぎる気もするが、ともかく、概念に対して哲学っぽい関心の持ち方はあって、それは人類学的な言葉の扱い方とは全然で、互いに他のやり方に対して興味を持てない、ということはありそう。別にそういうふうに言葉を捉える人たちに関心を持ってもらう必要がない、ということもあるけれど、真剣に言葉を扱おうとする人の中にそういう考え方の人が少なくないことは確かだろう。一体、何をどうすればいいのかしら