2026年9月16日(水)濃度を上げる
最近、文章の濃度を上げすぎているかもしれない、と思った。文章のモデルが、レストランの料理、短歌、情報が少ないタイプのインスタレーションなので。どの部分をどんな組み合わせで取り上げてもちゃんと意義がある、他との関係で効果を持たない部分を置かない、ということを徹底しようとしている。
ひとつの文章内部で緻密に文同士を結びつけることは、行きつ戻りつできる文章だから可能であるような、かなり書き言葉的な作法であって、ほとんど必然的に話し言葉から離れていくので、普通の意味では読みにくくなる。多分息苦しい。
昔の自分を知っててくれる人の数 数じゃないけど数を数える
(永井祐、『文学茶釜』2026年9月19日)
永井祐は、書き言葉として完成した短歌、つまり話し言葉とは異なる仕組みにもとづく短歌を完全に操作できるゆえに、書き言葉と異質な論理を持つ話し言葉を、書き言葉としての面白さが生じる範囲で取り込んでいる、と思った。これは単なる話し言葉ではない。
濃度を上げる癖はおそらく『新潮』や『RiCE』といった一行の長さが短いところで文章を繰り返し書いているせいもあるのだろう。『新潮』のエッセイは一行19文字が3段組で2400字くらい、『RiCE』のエッセイは一行18文字が3段組で、だいたい1800字くらい。だいたい1-3行くらい足りなくなってすべての段落から数文字減らそうとする、ということを繰り返しやってきた。不必要な推量、冗長な助詞、クリシェ的な言い回しを刈り込んで、それでもまだ削り込みが足りないと、書いてしまった中で本当はどの論点が不要だったのかを考える羽目になり、よくよく考えると手癖で書いてしまった文に気づいてしまう。最初に書くときには、自分に厳しい制約を書かず、流れるがままに書いていく、という口語めいたやり方をとる必要があるけれど、それを書き言葉に近づけていく。
文学茶釜、過去のものが見れない or 全然見つからない