2026年2月12日(木)スローモーション
菱田屋酒場でカキフライ。巨大な牡蠣だった。一般的なカキフライは、一口か二口で食べる大きさなので、牡蠣全体の味が一度に感じられるが、そのカキフライは違った。部分部分の味がそれぞれに鮮明に感じられた。端の黒々とした部分の岩っぽさ、貝柱の味わいの綺麗さ、内蔵の苦味。どの瞬間も美しいスローモーションだった。
菱田屋酒場でカキフライ。巨大な牡蠣だった。一般的なカキフライは、一口か二口で食べる大きさなので、牡蠣全体の味が一度に感じられるが、そのカキフライは違った。部分部分の味がそれぞれに鮮明に感じられた。端の黒々とした部分の岩っぽさ、貝柱の味わいの綺麗さ、内蔵の苦味。どの瞬間も美しいスローモーションだった。
枯朽のお茶会に参加した。
最初のお茶は白茶。秋の夜に楽しくおしゃべりしながら飲みたい。ごくごく飲んじゃって、あっという間になくなるような味。犬の耳みたいな嬉しさ。
二つの目のお茶は、生プーアール。目が覚めるような味。夏の朝日より青い。細かくて黒い石、砂利のよう。儀礼の場で少しずつ飲むにもよさそう。あるいは、ちょっとしんどいときに飲むと、それでも頑張ろうと思える味かもしれない。
三つ目のお茶は、烏龍茶。里山の、どちらかといえば遅めの春。蓮華のような可憐さではなく、ぱっと明るい菜の花の畑。犬のお腹。
最後のお茶はお願いして選んでもらった。お茶請けとして出してくれたのが、菜の花、そら豆、グリーンピース、蕪の蒸籠蒸しで、けっこう蒸してあったためか、青さは飛んでいて、むしろ川の上流にごろごろ転がっている大きな石のような。これに厳密に合ったお茶を選ぼう、ということで清藤さんと相談した。選んでくれたのは、かなり気持ちが凪ぐようなお茶。とはいえ、暖かくて明るいというよりどちらかといえば無機質的で、川にかかっている鉄橋のよう。煎を重ねると、少しずつ橋を離れて山道のほうに入っていくけど、微かに川の音が響いている感じ。
友人Tと話していた。最近はたくさんワークショップをしていて、どれもけっこういい感じらしい。
ひるがえって、私が開催しているワークショップはどれほど盛り上がっているだろう、と思った。Tと一緒にファシリテーターする機会があるたびに彼の技術や発想を学んできたので、最近の私のワークショップがつまらないことはないと思うが、ものすごく盛会だった、というほどではない気がして。会を面白くするための細かいコツを積み重ねてきたからこそ、改めて「そういう問題だっけ…?」と考え直すことになった。
話の流れでTは次のように言っていた。「なんとなく、盛り上がり、熱気、迫力、みたいなのがワークショップの、雑だけど信頼できる指標だったりしますよね。その場で何か知らないことが起こっている感というか」。
そして気づいた。一番大事なのは、「ここで小さな奇跡が起こると信じてください」と自分にも参加者にも言い聞かせることなのだ、と。改めて考えてみると、何かを作ったり書いたりすることは、元々それ自体としては大したことのない素材や他の人だって知っているようなことから、それ以上のものを生じさせることだろう。ワークショップの参加者も、そのような確信を共有した方が、その場でよいものを生み出せて、楽しめるに決まっている。
というか、ワークショップについての反省を離れて、私は奇跡を信じることの重要性をわかっていなかったな、と思った。私自身が面白いと思える文章が書けたときは、そこでちょっとした奇跡が起こっていたはずなのに。私は作ることや書くことが何もわかっていなかった。
ここ数日読んでいる本の著者のことがだんだんわかってきた。一般的に「羨ましい」という言葉は、自身が根ざしている価値観の体系において優れているとされるものを持っている人に対して向けられると思われるが、著者は私と異なる前提を生きているように思われ、その前提を自分は採用しようと思えず、そのために羨ましさに似ているようで違う感情を抱いている。
毎日本当に楽しいが、この日々の終わりが近づきつつある。これだけ楽しい日々を過ごしているということも、忘れっぽい私はきっと忘れてしまうのだろう
引き続きAntigravityで遊んだ。ちょうどトークンを使い切るくらいのところで一通りツールができた。しかし、そもそも何のためにツールを作るのかきちんと考えずにツールを作ったせいで、紙ではなくデジタルでその作業をする意味がよくわからない、と思った。
ともあれ、衝動が治まるまで遊び切った。よかった。執着を手放すことに執着があると言える。私は「芋粥」が好き。もっと軽やかになりたいという衝動は強いのかもしれない。
昼ごはんはケノヒノパンでサンドイッチを買おうと思ったら、あんバターしかなかった。「これしかサンドイッチないんですね……」と狼狽えていたら、「ジャンボンブールなら作れますよ」と言ってくれた。とてもありがたいが、あんバターもジャンボンブールもフランスパンベースのサンドなのだ。口の中がズタズタになりそいう、と思って迷ったが、お願いした。ジャンボンブールはわざわざ切って作ってくれた。ありがたい。やはり口の中を切った。
近い分野の研究者がインタビューされているのを読んで、とてもつまらなかった。しかし、私が研究者として特別ではない以上、その研究者がつまらないということは私も同じくらいつまらない存在なのだろう。
今日もずっと魔法のような表現とその方法について考えていた。内容にも背景にも興味はなくて、記述を生み出す仕組みだけが知りたい。頭の中を考えの断片が駆け巡っている。
数日かけて読んでいるテクストに楽しそうな読み筋が見えてきて嬉しい。
Antigravityに出会ってしまった。時間が溶ける。こんなに楽しいのは久しぶりだ。新しいおもちゃ。それなりにできるものづくりの領域が増えたこと、大きな喜び。しかし、こんな感じで、思考がなんか断片化してしまう……。
検討すべき本をOCRして、丸ごとWorkflowyに流し込んで、線を引きながら読み、重要な部分を抜粋した。一度すべてをテキストデータにした上で分析を進めることには、抜け漏れなくデータを扱えているという安心感がある。文章を自由に読むには手続き的な不安がないほうがいい。
難しい本に歯が立たなかったので、AIに少しずつ渡して解説してもらったら革命的にわかりやすくなった。人類学などの難しい本は、現実の細部に根ざして語りを組み立てなければいけないせいで、議論を理解できないうちにはとかく詳細に振り回されてしまうことになる。その事実的な部分を一旦脇に置いて、仮説としてであっても読み筋を提示してもらえると、元の文章の事実的なところもきちんと位置づけられるようになる。おおまかな仮説を持った上で文章を読めれば、仮説の誤りも修正できる。読み書きすればするほど世界が豊かになることを日々実感している。
今日はたくさんの書類が届いて、そのだいたいが社会保険や年金の関係だった。企業に義務を課した国に守られている、と思い、そのような仕組みを作った人類の歴史に感謝した。医療が理系寄りの人類の叡智だとしたら、社会保険があまねく行き渡るようになっていること、つまり人権が適切に設定され、法律と書類が緊密に組み上げられている状態は、どちらかといえば文系の叡智だなと思った。
昔住んでいたあたりを散歩する。外食をした記憶がまったくない。時間があり、貧しかったんだろう、と思った。
数日間手がつけられなかった資料を読み始めた。昨日は「つまらない文章になってしまうかもしれないということを考えると怖くて始められない」と書いたが、資料を読み始めてみると、それがあまり面白くなくて、今日はここから意味のある文章が書けるのか不安になった。
自転車を漕ぎなら、「あー、なんかつまんないのー」と叫んでいた。口にして、おかしいなと思った。少なくとも今日は、AIとたくさん話して、すごく思考が進んだ日だったから。議論したのがAIだからつまらなかったのだろうか、あるいは、そもそもつまらないというのは誤った感情の認識だったのか。
ここ数日、手をつけたくない書き仕事を前にぐずぐずしてしまい、無為に時間が過ぎている。多分面白い文章が書ける、と思ったからやることにした仕事なのだけど、つまらない文章になってしまうかもしれないということを考えると怖くて始められない。自分の底が見えてしまうようなことに取り組むのは怖い。
朝からトークンが尽きるまでAIと壁打ちしてしまう。この日記を書いているその翌日もトークンいっぱい壁打ちした。AIは疲れないし、議論を誤魔化さないし、優位に立とうとしないし、どんな雑なフリに対しても丁寧さを失わないからありがたい。
山﨑広太の戯曲ダンス 「右の眼、交差するデリカシー、青炎球、骨と直線(する)」を見に行った。
ずっと思っていたのは、柱や椅子がある狭い空間で身体をはちゃめちゃに使っているのに机に手をぶつけたり壁に激突しなくててすごい、ということ。自分の身体とものの距離が正確に測られている。
全体としては、私には上手な踊りがどのようなものか何かわからないものの、上手な踊りを見た、と思った。静止せずほんのわずかに体を動かし続けてみせるところとか、格闘技のように細かく手を動かしてみたり舞踏のように這ってみたりと人間に可能な様々な身体動作を繰り出してみせるところ。
とはいえ、人間に可能な動作をすべてやっているわけでもないようだった。というのは、演者同士が触ったり、支えたり、振り回したりすることでできる動きもあるはずだったから。全く接触しないわけではなかったが、最後の方に少しだけだった。ダンスを一緒に見に行った人は、接触すると演者の間に関係性ができてしまうからかもしれない、と推測していた。そうかもしれない。総体として、関係性や感情といったものが込められていないような踊りだった。
誰にも見せない日記は十年以上書いているが、自分しか読まない文章にはきちんと検討されないままになっている部分が多い。公開する日記はその行間を詰めるのに役に立っているようだ。
本を読もうとパソコン作業には向かないけど好きな喫茶店に行ったら今日は妙に煙草が充満していた。家に帰っても煙草臭いのが取れなくてうんざりしてしまった。
江川隆男『哲学は何ではないのか——差異のエチカ』を読む。同一性の否定である対立として差異を捉えてはならない、差異それ自体を肯定的に理解しなければならない、と謳うのはよいが、それを言い募るだけで差異を肯定的に掬い上げることができるわけではない、と人類学者として思う。否定それ自体の内部にも差異があって、否定をも肯定のために使うことができる。人類学はそのような戦略と技術を発展させてきた。
博覧強記型の優れた知性を持った人とお茶を飲む。私は一般的な意味で物事を知ることにまったく関心がないと思った。私が興味を持っているのは、他者との差異や謎めいた現象に照らして自分の思考や感性を理解するとともに、それによって自身を部分的に書き換えることだろう。普通の言葉で言うと、ぐじぐじ内省するのが好きなんだと思った。
14時から19時まで読書会。ぐったり。英語の本なのだが、みんなは翻訳ソフトを使わずに読んでいるようで、ちょっと恥ずかしかった。
午前は頑張って仕事したので、午後は公園を窓の向こうに見るカフェで本を読んで過ごした。本も面白かったが、嬉しかったのは、読み終わって外を歩いていたとき、「毎日いろんな大事なことをわかりつつあるな」と思えたこと。こういう実感がある日々を送る以上に大事なことはない。無力感と徒労感から免れていたい。
上の世代の研究者と議論する機会があったが、ぜんぜん話が噛み合わなかった。自分では普通だと思って取り組んでいた研究は、従来の前提からだいぶずれてしまっているようだった。マリリン・ストラザーンを追いかけているうちに、ちょっとだけストラザーンがかつて言われていたであろうことを想像できるようになってきた。
「僕が一番嫌いなことの一つは、家で作業している日に昼ごはんを考えることだと思った」というのがどういうことなのか、引き続き考えていた。ある程度時間と手間をかけられる夜ごはんであればある程度紛らわせることができるような、食べることそれ自体のしんどさにそのままぶつかってしまうからだろうと思った
Schools and Styles of Anthropological Theory、中盤になって急につまらなくなった。歴史もマルチサイト民族誌も認知人類学もフランクフルト学派もフーコー派=倫理の人類学も全部つまらなかった。引っ掛かりがなくてほとんど読み飛ばすように読み進めてしまった。考えてみると、序盤の部分の機能主義や構造主義、マルクス主義、実践理論にかんする章は、個別の論文の「先行研究レビュー」として設定されないほど一般的な手続きの発生を扱い、その手つき自体はどの対象にも応用可能性がある。対して、中盤の部分はいずれも「先行研究レビュー」的で、関係ない対象を扱う人には関係なくなる話だった。
僕が一番嫌いなことの一つは、家で作業している日に昼ごはんを考えることだと思った。
Schools and Styles of Anthropological Theoryという人類学の学説史の教科書が面白すぎる。私が知らないうちに学んで実践していたような考え方について、起源が辿られるとともに、その発想の根底にある原理が明晰に語られていた。最初に議論が提唱されたときの議論をそのまま使うことはできないにせよ、その見方自体は現在でも使うことができるようなものだった。そのような用法を意識して執筆された本なのだろう。それぞれの章は別々の学派やスタイルを扱いながら、どの章にもそうした発見があって、人類学的に考えるための道具箱を手に入れた気分だった。こんなにわかりやすく方法が書かれた本があるのに、大抵の人類学者はそこで書かれたことをまったく踏まえないような粗雑な文章を書いていて、本当によくない。
こんなふうにぐだぐだできるのももう終わりなんだろうか。不安だ。
連載がないと告知をすることが少なくて、自分が仕事をしているか不安になる。
東京はそこらじゅうで東京的な会話が繰り広げられている。昼の定食屋で、テレビドラマの撮影の予算が毎年減らされていて大変、みたいな話をしていた人がいた。
今日食べた料理、否定形でしか書けなかった。筆力不足。強いて言えば、すべての食材が洗ってあるような味がした。
ふとカシスオレンジを頼んだら懐かしい味だと感じた。
昼ごはんを回転寿司で食べながら、気づいた。昨日は新年会で寿司屋に行って、明日は友人とちょっといい寿司屋に行く予定がある。週に三回寿司を食べるのは人生で最初で最後だろう。
飲み会の席で友人たちが真面目に議論していた。個人的にも思うことがある論題だったが、話を持ち出した人の主張があまりに雑だったので、ずれた認識を修正する労苦を考えて嫌になり、他の人が反論してくれるのを適当に相槌を打ちながら聞いていた。不義理だと思うが、そんなに頑張れない。
今日は寝不足で特に機嫌が悪かった。
川鵜を初めて見た。汽水域の川に小さな鵜が二羽浮かんでいた。コンクリートの護岸を嘴でカンカン突いていた。ちょうど干潮の時間だったので、壁に張り付いている貝が水面に上がってくるはずで、それを食べているのだろう。激しく突いていて、嘴が割れないか心配になった。目がぎょっとしていて、なんだか間抜けな顔している。
その後でもう一度その川を通りかかると一羽だけ成鳥がいた。でかい。すぐに飛び去ってしまったが、ちょうどこちらのほうに向かって飛んできて、その時すごく大きな音でバサバサと羽が鳴っていた。それほど大きな音が鳴るのは鵜の羽の性質によるのかもしれない。
電車の中で鵜飼について調べた。不思議な生き物だと思った。
友人が書いた文章を送ってもらって、ひとり傷つく。それは、具体的なもろもろの事象を枠組みで単純化しないような、細部の明瞭さを目指したような文章だった。友人は私と同じ分野の研究者であるゆえに、自分の文章との違いが明白に感じられた。
友人の文章を否定的な仕方で言い換えてみれば、それは語りそれ自体としての意義を明示的にせず、現実の曖昧さや緩さがそのまま取り集めて提示されている、とも言えるのかもしれない。しかし、ひるがえって、必然性で飾り立てないような、複雑味のある文章を私が書けない、という自分のつまらなさが自覚されて辛い。
それどころか、そうした散文的な文章をちゃんと読むことすら、私には難しいではないか、と思う。私の見解では、わかりやすい意義や明瞭さなどに支えられていない、散文的な文章を平気で読みこなす人こそが本物の読書家である。私は最低の読書家だ、と思って落ち込む。
かといって私は、息をするように必然性や意義のある文章を書けるほどの直感があるわけでもない。散漫な文章をその都度手をかけて削って整えているような気がする。そちらにも劣等感を覚える。
そんなことを考えながら、傷つくと傷つけられる、能動と受動は逆になっているけど、同じ事態を指す、と思った。
以上の日記を書いた後もうしばらく考えていると、さらに気づくことがあった。素材の複雑さがそのままになっていて、作為的な切断が見えない文章を私が許容できないのは、僕がそのような文章を書いてしまえば他のすべてのフードライターと同じになってしまう、という恐怖があるからだろう。扱う対象から自分が書くものの価値を得られないゆえに、それをきちんと整えることに執着してしまう(もちろん、普通のフードライターのように私の研究対象を書いてしまえば、研究対象それ自体の価値もよくわからなくなるだろう)。よく考えてみれば、この日記でさえ、簡単にであれ素材を丁寧に切り揃えて出す試みとも言える。
こういった怖れなく文章を書ける人が羨ましいとも思った。