fujitashu

2026年7月26日(日)概念を握って使うことには興味がない?

昨日まで読んでいた本が重要な理論的な支柱として参照していた本を読んだ。以前読んだことがあったけれど、まったく印象が変わってしまった。端的に言えば、同じように言葉に振り回されていて、概念を握って使っている感じがなかった。

これを「二人とも馬鹿だから」で片付けるのは簡単だろうが、それは見切りが雑すぎる。二人とも優れた部分が多い著者である以上、「単に概念を握って使うことに興味がないから」と考えた方がいいだろう。さらに言えば、「そうやって言葉を扱う体験が意識化されることが稀であった」とか、「学問領域としての慣習が違う」とか考えた方がよっぽど得るものが多い。

そう思って考えてみると、確かに、哲学ないしその近接領域は概念を握って使うことより、概念を完成させて、それをできる限り遠くまで行かせることの方に関心がありそう。もちろん、誰かが不完全なままにした概念を叩き直してより良い概念を作る、ということはやっているだろうけど、むしろ手綱を離して自立した概念を生み出すことを求めているような気もするし、良い概念/悪い概念 が 上手い読解/下手な読解 に仕分けられていそう。

対して人類学は、どれほど概念がある状況に位置づけられたものでしかないかということを自身に延々と言い聞かせてきた学問で、異なる概念は異なる状況に対応づけられることが基本の一つにあるはず。どんなふうに自分たちが概念を握って使ってしまっているか、ということをずっと人類学者同士で言い合ってきて、(それをもって「だから人類学は根本的にダメなんだ」という人でない限り)うまく概念を握って使おうとしてきたように思う。

同様に対比すれば、哲学が完成した概念を作って、それがどんな時でも使えるようになる、ということに嬉しさを感じているとするならば、人類学は概念がうまく行ったり行かなかったりする時を見つけて概念を握り直す、それに応じて状況を分け直す、ということがプログラムに組み込まれている気がする。当然、人類学にも完成した概念で全てを語って終わりにしたい人はいるけれど、だいたいは言葉がうまく行かない状況を探すことが強く動機に組み込まれている。

……いや、これは私の定式化した人類学に近すぎる気もするが、ともかく、概念に対して哲学っぽい関心の持ち方はあって、それは人類学的な言葉の扱い方とは全然で、互いに他のやり方に対して興味を持てない、ということはありそう。別にそういうふうに言葉を捉える人たちに関心を持ってもらう必要がない、ということもあるけれど、真剣に言葉を扱おうとする人の中にそういう考え方の人が少なくないことは確かだろう。一体、何をどうすればいいのかしら

2026年7月24日(金)概念を握って使う

期待が高かったのですぐ読まなかった本が期待外れだった。

まず、不要な文章や語などが多い。前に書いたことをほぼ繰り返す文章、議論に入る前の投げかけ、いらない副詞、反語、傍点による強調、不要な改行。それほど文字数の制限がない書籍という媒体であることを考えても、あまりにだらっとしている(だけど、もしかして、そんなにぐだぐだ書いてあげないと読者は読んでくれない、ということなんだろうか)。

次に、概念に振り回されている。強い言葉で書こうとしている物事を不用意に切り分けてしまっていたり、用語自体を長々と検討して論脈が失われてしまったり、逆にそうした言葉を呼び出すことをもって記述や論証を省いたりしている。文章内に漢語が多く、和語の動詞が少ない、ということにも言葉の重さに屈している兆候が現れている(とはいえ、物事を学問によって捉えようとする人は、そもそも言葉に振り回されることや漢語を使うことを好む傾向があるのかもしれない)。文章内には、ちゃんと書けばもっと面白くなる事柄がたくさんあったのに。ある章と別の章の議論では異なる概念群が使われているが、私の目にはそれらを共通した言葉で記述することができるように思われた。最終章でそれらを統合するのかしらと思っていたらそうはならなかった。

このように並べてみて、余計な装飾をたくさん置いてしまっているから重い言葉のなすがままになっているのかもしれないと思った。文章の総体としてはある程度書かれるべきことを把握しているように見えるが、どの文章や概念がきちんと現象を捕まえるのに必要で、どれが効いていないのかわかっていない。いらない部分を削ぎ落として少ない概念に重さを預けてみれば、どの用語がうまく働いているかきっとわかったはず。その結果として、概念が握らずに使われることになる。

翻って、私自身は言葉をうまく掴んで使っているのか、ということを考えざるを得なくなる。仮に現在は必要十分な仕方で用語を用いていることができているにしても、それができるようになったのは『新潮』でのエッセイの連載と、博論の最終章を書いた頃以降であって、これ以前に書かれた文章、例えば時期的にはそれらのすぐ前に発表されたノーマ京都のレビュー( https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/noma-kyoto-review-202304 )を書いたときには雑に概念を並べていた、と思う。比べてみると、エッセイの連載も博論の最終章は時系列や論述の枠組みに沿っていない文章、あるいはそうしたものを意図的に放棄しようとして書かれた文章であって、ノーマ京都のエッセイは料理を提供された順番で並べたものであった。言葉に振り回されていた本もまた、普通に物事について話す順番で章が展開していた。確かに、情報を並べる枠組みや順序を一旦忘れて、対象に即してそれらを組み直す、というのは、だんだんできるようになってきたとはいえ、とても難しいことだろう。

この本が期待外れだったというより、これが称賛される現状に動揺しているように思う。第一に、もっとすごい著者がいるはず、って夢見ていたかった。そして、自分の文章が受け入れられるか不安になる。私の議論に新規性があるということで、論文を書く余地はあるわけだが、エッセイに違和感を持たれるのは嫌だ!

追記 概念を握って使えるようになった以降の文章でインターネットで読めるものが少ない。以下の展示評はそのひとつだろう https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/hiroto-tsuda-review-202505

2026年7月20日(月)駆け抜けた

ついに終わった……。長かった一学期が終わった。先例がない授業をして、原稿も手を抜かずに資料を読み込むところからやって、胃が痛くなるような文章もきちんと踏み込んで書き、学会発表も自分の考えられるかぎりのことを考え、書籍の原稿の改稿も二回くらいやり、同時に研究用の、そしてこれからずっと使えるような基盤的なAIを一から叩き上げて作った、しかもケータリングしながら。

辛い時期を耐え抜いて、強くなったのかはわからない。記憶を半ば失くしつつもやり切った。ひとまず二日間休んだけど、まあごろごろするのは飽きてきた感じはしてきたけど、でもまあまだやりたくない

2026年7月16日(木)重いものを持ち上げる祭

(以下、調べれば正確な用語にできるものや訂正できるかもしれない誤りをそのままにしています。初日のフィールドノートのラフさだと思ってください)

祇園祭について下調べしている時に、それが「日本三大祭」だという説明を読んで、ちょっと苛立たしさを感じてしまった。私は静岡県浜松市出身で、ゴールデンウィークには市のほとんどの町が参加する大規模な凧揚げ合戦が開催されるが、やはり田舎は入れてもらえないのだろうか。けれど、祇園祭の現場を見てみて、三大祭という表現は不正確だが誤りではないと思うようになった。

4月に京都に引っ越してきて、祇園祭を見るのは初めて。

バスは、祇園祭の交通規制のため、いつもと違う道を通って市内中心部に向かう。四条大宮のあたりに行くと「意外とみんな普通に生活している」と感じた。今は平日の午前中なのだった。

この日は仏教美術の先生と美術史の院生ともに、鷹山の組み立て現場を見学させてもらいにきた。組み立て初日の午前で、山鉾上部の最も基礎的な骨組みが立ち上がったばかりのところらしかった。Geminiの見立てではこの段階で2トンくらいある。いろんな番号が書いてある木がたくさん積んであった。どこに保存してあるのだろう。

20人くらいの作業服の男性が動いていた。みんなプロの格好して、プロ的にキビキビ動いている。昨年取り付けたところに印がついているとかではなく、測量しながら設営しているし、細かな作業表があったりした。大きな柱同士を麻の縄で、つまり釘でもなくプラスチックの紐ではなく、固定していく。麻の縄でちゃんと柱を固定することだけでもとても力が要りそう。専門家でないとできない仕事だった。

そのうち、作業場の前の車道にぎりぎりの大きなトラックで、大きな柱が二つ運ばれてきた。船でいうところの竜骨に相当するものらしい。一本800kgくらいはありそう。そのトラックに付随のクレーンではなく人の手で持ち上げることが想像できない。

柱は年季が入っている。鷹山は近年復活した山鉾だった。鷹山は江戸期の巡行の際、雨に振られて懸装品がダメになってしまった後、どんどん焼けの時に山鉾が焼失してしまって、しかし2022年に復興している。大きな柱は他の山鉾から譲り受けたらしい。今使っている車輪も他からもらったもので、いつ壊れてもおかしくないので今はクラファンに取り組んでいる。目標金額は1200万円らしい。

作業が行われているのは復興を率いた、保存会の元会長の会社の敷地だった。4階建ての実用的なビル。駐車場かと思ったら、一階の奥のほうに抜ける通路があり、そちらに車が停まっているのが見えた。だとすれば、この作業場は山鉾を組み立てるために確保したのか……?と思ったが、建物は1990年台の雰囲気があるし、復興は最近なのでさすがに違うだろう。

というか、他の山鉾は一体どこで組み立てているのだろうと思った。山鉾がある通りは基本的にオフィスビルや飲食店が並ぶところで、駐車場的なものはない。少なくとも、すでに組み上がった山鉾は道路の真ん中を占領していた。それでも、大通りでない内側の通りならばそれも理解できるけれど、四条通や烏丸通を挟む団体はずっと道の一車線を塞いでいるということだろうか。

普段烏丸通を歩いていると、オフィスビルの間にポツンと古い家屋があることには気づいていたし、その門のところに文化財的な建物の前によく立ててある看板を読んだことがあった。その山鉾、孟宗山もその日は建物を開放していた。入ってすぐのところには、孟宗山や、その御神体の由来を説明するパネルが設置されている。さらに奥には御神体が飾ってあって、数人のおじさまがちまきを売っていた。仏教美術の先生が、飾られている懸装品を見て平山郁夫かしらと呟くと、果たしてそうであるらしい。昭和以降の画家とはいえ、祭りのための集会場に何気なく平山郁夫が飾ってあるものなのか。美術品だ。孟宗、つまり筍をモチーフにした山鉾であるためか、小さな竹林が設えてあった。三面をオフィスビルに囲まれた薄暗い場所に一角に竹林がある。町内会費で固定資産税を賄えるのだろうか。

他の山鉾もビルの合間の路地を奥に入ると、突然神社めいた建物や小さなお社が現れる。ガラスケースの向こうには、1880年台に作られたという華美なタペストリーがある。端の方はほつれている。普段は京都国立博物館に寄託されているという日本刀がある。かと思うと、2011年に作られた三十六歌仙絵巻の懸装品がある。誰かがそれを作る技術を守り続けているということを意味する。

その山鉾のところでは8人くらいの人たちがちまきを売ったり案内したりしていたが、おそらく全員がこの通りの住人や、ここにオフィスを構える会社の従業員というわけではないのだろう。大学でもボランティアスタッフを募集する張り紙を見たことがある。米山俊直『祇園祭——都市人類学ことはじめ』(国会図書館の個人送信サービスで読める)によると、1970年台ごろからすでに、一つの山鉾を共有する単位が10世帯以下のところもあったし、アルバイトによって運営は補助されていると書かれていた。そういった組織運営はもう手慣れたものなのだろうか。

翌日には山鉾の巡行を見たが、そこで行進している人たちは詰所にいる人たちともまた雰囲気は違った。また別でアルバイトを募集しているのかもしれない。観客は、おそらくそのために植えられた欅の木陰で見ていればいいが、7月の真昼の京都を行進するのはそれだけでものすごい仕事だから。白化粧をしたお稚児さんは、神様の遣いとして、健気に手を振っていた。みんな真昼でシラフで、どこにも酒が売っていなかった。

祇園祭は私が知っている祭と比べてとことん重い祭だと感じた。

凧揚げ合戦に参加するそれぞれの集団は、町単位で運営されている。小学校の学区を三等分したくらいの範囲が町で、子供で言うと一学年40人くらいはいるはず。それなりに住民数があって、何かのたびに顔を突き合わせることになる人たちの集まり。大人も子供も公民館に集まってラッパや太鼓を練習する。

その祭りは初子の誕生を祝うもので、夜は小さな屋台を引きながら町内を練り歩いて、初子の家の庭や前でラッパに合わせて集団がぐるぐる回る「練り」をしてオードブルを食べる。昼は、浜の隣にある大きな公園にすべての町が集まって、初子の名前が書かれた凧と町の名前が書かれた凧をあげる。凧の大きさは3m×5mほどで、子供や大人みんなで綱を引き、それをラッパで囃し立てる。初子の凧ではやらなかったはずだが、町の名前の凧では綱切り合戦的なものが行われる。凧の綱同士を絡ませて、互いに綱を切るものらしい。綱切り合戦は大人のもので、私は子供の頃しか祭りには関わっていなかったので詳細はよくわからない。それでも、海沿いの広々とした空に100以上の大きな色とりどりの凧が上がるのは単純に嬉しかった気がする。お金について聞いたことはないが、初子の家がそれぞれ作ったり、綱切り合戦で落ちて壊れることが許容できる程度のものだったのだろう。浜松には当然専門家がいるが、竹と紙で作られる凧なのだ。

ともかく、祭のために維持されている集団があるというより多目的な集団の一つの活動が凧揚げ合戦で、やっぱり子供の誕生はめでたいし、ラッパをBGMに「練り」をするのはアガるし、糸切り合戦は多分盛り上がるし、お酒をたくさん飲めば楽しい。日々の学校や仕事の感じではない。そういえば、凧揚げ合戦の意味は聞いたことがなかったと思う、確か城主の子供の誕生を祝うためだったとかだったかもしれないが、それが話題に上がったことはない。というか、だいぶ発祥さえだいぶ世俗的な話だな。

祇園祭は、ほとんど祇園祭をやるという単独の目的のために集まった大きな組織であり、アルバイトや専門家をたくさん雇って運営するために保存会が日夜奔走しなければ維持ができないだろう。仕事だ。人員やお金がたくさん必要なのは、まず山鉾が大きくて重いから。御神体や懸装品も管理しなければならないし、それらは雨に濡れたりすればだめになってしまうけど、すべてを新調できないほどではない。それらを保管する建物は、田舎のようにただ同然ではないが、ないことはない。神事にまつわるいろんな意味があり、真夏の疫病に際して生まれた行事でもあり、日本の中心である京都が担ってきた伝統がある。

すべての装飾も含め、完成すれば3トン以上はありそうな、歴史そのものを体現するような造形物が立ち上がることにはやはりそれに特有の高揚感があるだろう。凧なんて風に舞うようなものをあげて、酒を飲みながらラッパを吹くのとは全然違う。祇園祭が日本の中でも相当重いものを持ち上げる祭だ、ということは確かだと思った。三大祭であるのかはわからないが三重祭の一つであることに疑いはない。

2026年7月13日(月)怪文書

怪文書を書いてしまった、ということと、怪文書が書けるようになった、ということを同時に思った。

怪文書を書いてしまった、というのは、常識的に読みやすく整った文章でないものが出来上がってしまった、ということの自覚。意味不明だとか文章が下手だとか思われるのは嫌だ。

怪文書が書けるようになった、と思ったのは、一般的にちゃんとした文章がどういうものであるのかを知りながらそれを踏み越えられるようになってきたということであり、定型を外れて不安定でありながらぎりぎり成立する形に文章をまとめられるようになってきたということであり、そうした蛮行を必然性として引き受けられるほど対象についての確信を得られるようになってきた、ということでもある。

これからもちゃんと怪文書を書いていきたいし、それがまったく怪文書ではないことを読み手に納得させられるようになりたい

2026年7月11日(土)怖さの自覚

苦しい日々を過ごしていることに気づいた。ちゃんと自分が感じていることを把握しましょうと他人に言っているくせに、ここ数日の自分の状態を自覚できていなかった。今取り組んでいる文章が本当に気が重い。

まず、その文章が扱う作家について書くのはこれが三回目である。一つ目、二つ目の文章と同じことを書くわけにもいかないが、かといってまったく異なる議論になるのもおかしいだろう。次に、その作家のいくつかの作品を論じることになっているのだが、それらは作家の活動期間の結構な割合について書くことに等しくなってしまう。作家がやっていることのほぼ全体について検討するようなものだ。第三に、その彼は私以上に読み書きが上手い。誤魔化しが効かない。最後に、作家は友人でもあるので、ダサい文章を書いて嫌われたくない……。

怖くて怖くて仕方ない、ということを自覚して少しだけ楽になった

2026年7月9日(木)これから30年くらいの仕事

偏差値で会社を選びたい男の話をあちこちでしている。とりわけ学部生向けの、特に演習に近い授業では、自分自身で取り上げる題材を決めさせることになるのだが、自分の関心をよくわかろうとする習慣がない人たちには、それがわかるとなぜよいのかということがほとんど想像できないだろう、と思っているため。

振り返ると今学期はずっと「お前は何がしたいんだ」と聞き続けてきた。これから30年くらい、それを尋ねるのが私の仕事になるのだろう。僕の仕事。

とはいえこの質問を向けるべきは学部生だけではない。ちょうどこの日は一緒に研究してきた友人にも同じ問いを向けることになった。人間は放っておくとなあなあで生きていくことになるから、私にもその都度聞いてほしい。

2026年7月8日(水)鼻血

先週のケータリングに向けてその数日前から緊張していたし、それと並行して本の改稿をしていたし、ケータリングの日からFableが復活したので根を詰めて遊んでいた。しかもまだ方針すら決まっていない原稿があり、それを頭の中に置きつつ前期の授業の最終回に向けて準備していた。

授業開始直前、唐突に鼻血が出て、これはまずいと自覚した。この数日自分で気づくしかたで機嫌が悪かったり、体が重かったり、一回引いたはずの胃の気持ち悪さが戻ってきたり、緩やかに頭痛がしたり、だったことを思い出した。

2026年7月7日(火)攻め込めていない

この日記、最近は書いていてあまり楽しくないな、と思った。自分が考えきれてないことに攻め込む、ということをできてなくて、自分が考えていることを確認するだけになっている。研究者であることとそれ以外がいいループに入ることもあれば、単に切り売りになることもある

2026年7月6日(月)シネフィルのための夏休み映画

濱口竜介『急に具合が悪くなる』見た。苦境に立たされる主人公があり、急な雨があり、散歩がある。長距離移動も、おいしそうなご飯も、問答も、ベッドシーンも、笑える不運の繰り返しも、似たテーマの反復も、希望もある。全部知ってる、でも全部見たことない。シネフィルのための夏休み映画!

2026年7月5日(日)「固有の遡行的時間の生成」から時間を分離する

岡﨑乾二郎『芸術の発見』読んだ。芸術を「固有の遡行的時間の生成」とする中心的な主張に同意するが、時間という、それ自体はすべての事象にかかわる形式に著者が振り回されているようにも見えた。「予期された帰結」のストラザーンやセントラルの料理で、時間を分離して展開し直してみたい!

2026年7月3日(土)自分の気持ちがわからない人々の悪口

人文系研究者の友人と自分の気持ちがわからない人々の悪口で盛り上がった。

友人の知り合いで、一般的に有名な大学の理系の大学院を出て、今でもあまり落ち目でなさそうな大きなメーカーで働いている男が、「会社にも偏差値があったらどの会社に入るか迷わなかったのに」的なことを言っていたらしい。

きっとこの人はすでに偏差値の高そうな会社に入りたくて今の会社にいるのだろうし、おそらく偏差値が高そうな女性と結婚するのだろう(男性であれば結婚するほうが偏差値が高いと思っていそうなので)。しかし、自分の気持ちがわからないあなたは、会社も結婚相手にも結局どこかで違和感を覚えて、だけど違和感があること自体すらうまく捉えることができないのでぼんやりと苦しむことになるだろう。

とはいえ、調子よく自分と異なる境遇にある人を貶しながら思ったのは、人文系の研究者は、自身が研究対象から感じ取ったものを学術的な言語で表現することのプロとして訓練を受けているわけで、そのような職業的なハビトゥスがないことで他人を論評するのはあまり品がないことだとも思った。

2026年7月2日(木)「温かい冷や汁ですね」???

初めてケータリングした。単純に料理を出す実力はないので、(おしのぎを提供しつつ)三種類のおいしさについての研究発表を聞いてもらった上で、きゅうりを使って味を感じ取るためのワークショップをして、きゅうりのフルコース。きゅうりの水餃子とフェンネルの水餃子、きゅうりの薄切り、きゅうり丸かじり、きゅうりの薄切りとミント、うりの塩揉み、きゅうりのにんにく炒め、鱧きゅうり、きゅうりと豆腐と茗荷の味噌汁・きゅうりの塩揉みと陳皮・きゅうりの泡菜・ごはん。

きゅうりのミントにみんな驚いていて、驚かれたことに驚いた。だけど、確かにきゅうりとミントはそれほど一般的ではないかもしれない、と納得した。

それに比べて、きゅうりと豆腐と茗荷の味噌汁を「温かい冷や汁ですね」と言われた時には困惑した。冷や汁のことがまったく念頭になかったので意表をつかれた、ということはわずかにあったが、なぜきゅうりと豆腐を主な具にして、茗荷を載せただけの味噌汁を、いろんな文脈を圧縮した固有名詞を捻った形で名指さなければいけないのかわからなかったから。

今考えれば、親切に作り手の意図を読んでくれようとしたのだと思うし、その親切には感謝するしたい。だけど、そのとき反射的に思ったのは、「みんな料理を料理名に当てはめて理解したがるし、だからきゅうりにミントを合わせるとかきゅうりを味噌汁に入れるくらいありふれたことができないんだろう」ということだった。これはこの場を超えて、私が取り組むべき課題。

2026年6月27日(土)オオサンショウウオの集い

台風の後の鴨川で、オオサンショウウオと、オオサンショウウオがちらっと見えたあたりに集まりどこでどんなふうに見えたか教えあう人たちを見た

2026年6月26日(金)幽玄に結びつかない陰影

Neutral 古織部 向付(桃山時代 / 16世紀) 鯵、ふのり、きゅうり、水茄子

鯵は重みの感じられる食材である。もし鯵と、きゅうりや水茄子を同じような大きさで切ったならば、重さの鯵に対して、きゅうりと水茄子は水に近い味わいによって軽さを担っていたことだろう。しかしNeutralでは、きゅうりや水茄子は飾り切りが施された小さな要素として皿に置かれる。それは、青い香りや、じゅくっとした湿り気だけを口の中に表して消え、明るい陽の光の中の木陰のような印象をもたらす。このような陰のあとに続くとき、鯵はそれ自体では陰でも陽でもない食材でありながら、陰を引き延ばしていくように振る舞う。ふのりのくぐもった岩石感もそうした暗いトーンを確認する。

夏の北側に向いた長い廊下は燦々と明るい屋外に比べればぼったりと暗くて、しかしそこにも多量の光が差し込むので、陰の中でさえ明るいのか暗いのか判然としない。ところどころに置かれた物のあたりは確かに陰の色が濃くなっていて、そのために他の部分の陰の淡さが際立ち、陰の濃淡を知る。このような幽玄に結びつかない陰翳を喚起するのがNeutralの料理だった。

2026年6月25日(木)突き放せない分

私は総体としての学生を植物のように思っているのだが( https://fujitashu.pages.dev/diary/2026-06-17/ )、ゼミの学生に対してはまだどのように振る舞えばよいのかわからない。ゼミでは研究関心を日常語や経験で解きほぐし、その傾向や前提を探るようなことを繰り返すが、そういったことは、研究者同士であれば、それなりに仲の良い間柄でしかやらないことだろう。しかし、当然、ゼミ生を仲の良い研究者のように扱うのは明らかに不適切だ。突き放せない分なんだか居心地が悪い。

2026年6月22日(月)寂しくない?

自分の推論アーキテクチャを埋め込んだAIを作っている、という話を何人かにしたが、人文系の研究者で私のような仕方でAIで遊んでいる人はいないらしい。そうなんだ……。そのとき「みんな寂しくないのかな?」と思った。

しかしその瞬間に、「これはちょっとズレた感想だ」と思った。そうやって遊び始めたきっかけは、単なる好奇心で、遊び続けるうちに寂しさに応える役割を見出すようになったので。

この寂しさは、生活の上での寂しさとは別の研究上の寂しさとでも言うべきものだろう。大抵の人文系の研究者は、研究について思い浮かんだことや疑問に思ったことがあっても、自分と専門を同じくする人と日常的に会うことがないので、それを一人で抱え込むか、誰かにわざわざメッセージしなければならない。さらに言えば、文献を読んで思ったことを共有したり自分の書きかけの文章について相談したりするには、その人にもそれらのテクストを読んでもらうか、丁寧に解説しなければならないところだけど、なかなかそういうわけにもいかない。それに比べればAIはありがたい。人間に比べればいつでも、すぐに返事してくれるし、文章を全部読んで応答してくれる。

この遊びにはけっこう時間をかけているが、私が書くものをほとんど理解してくれる3〜10人に一人追加していると思うとまったく負担ではない。

2026年6月20日(日)『リサーチのはじめかた』壁打ちプロンプト

ぼんやりした興味や疑問を研究のための問題に作り変えてくれる名著『リサーチのはじめかた』。大学で使ってみたところ、本の前半で苦戦した人がいたので、AIと一段ずつ壁打ちできるプロンプトを作りました。学生はもちろん、アーティストや自分のことがわからなくなった大人にもおすすめです。

以下の文章を全部コピーして、お使いのAIに貼り、送信してください。無料のChatGPT・Gemini・Claudeなどで十分です。あとはAIの問いかけに自分の言葉で答えていけば大丈夫。途中で書いたメモは手元に必ず残してください。

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これはあなた(AI)への指示です

あなたは、研究テーマを探している大学生(文学部の1〜3年生)の「壁打ち相手」です。『リサーチのはじめかた』の考え方に沿って、学生が自分の〈問題〉——「自分は本当のところ、何が気になっているのか」——を、自分の言葉で一つ掴むまで、となりで問い返してください。

【いちばん大事なこと:あなたは答えを決めてはいけない】

学生の関心や〈問題〉に、あなたから名前をつけてはいけません。「つまり君が気になっているのは○○だね」と、あなたが芯を言ってしまったら、この作業は失敗です。芯は必ず学生の口から出させる。あなたの役目は、決めてあげることではなく、学生が自分で決められるように、学生が書いたものを映し返し、問い直すことです。

学生が「これでいいですか」「どれがいいと思いますか」と聞いてきても、答えを与えない。ただし「あなたはそれでいいと思う?」と突き放すだけでは冷たすぎます。学生が書いたものに即して、もう一歩踏み込んだ問いを返してください。

【ずっと守る構え(学生に説明しなくていい)】

・学生が書いたものを要約して返さない。要約は読んだことにならない。

・「いいですね」「鋭いですね」とほめない。ほめるなら、立派な考えではなく「うまく言えないけど、なぜか気になる」という引っかかりのほうを大事にする。

・かしこそうな言葉を、あなたから持ち込まない。学生が専門用語や「教育」「多様性」「文化」といった曖昧で大きい言葉を使い始めたら、普段の言葉に崩させる。

・「人それぞれ」「興味があるから興味がある」で止めさせない。そこに必ずパターンがあるはず(あるものや現象、観点には興味があり、別のものや現象、観点には関心がない、など)と具体に押し戻す。

・量をほめない(ただしこの段階は多めに出させてよい)。

・とにかく書かせる。考えたことはその場で短くメモさせる。あとでまとめて、ではなく、いま。

・一度に一つだけ指示する。先の段取りは見せない。学生が先に進みたがっても、その段が済むまで次に行かせない。

・二つの束(や答え)がぶつかっても、急いで一つにまとめさせない。どちらかに寄せず、ズレを残したまま関係を問う——「その二つ、無理にどっちかにしなくていい。ズレたまま、どう関係してる?」。違和感を消すのではなく、違和感のまま扱わせる。

【問い返しの引き出し(例。場面に応じて使い回す。そのまま読み上げず、その子の言葉に合わせて言い換える)】

・かしこそうな言葉が出たら:「いま“アイデンティティ”って言ったけど、自分の普段の言葉にすると、どうなる?」

・大きい言葉(教育・多様性・文化……)には:「それ、具体的にはどの場面のこと?どんなことがあったときにそれについて考えるようになった?」

・本音を掘る(“なのに”“なんで”を拾う):「“病気なら薬を飲めばいいのに、なぜ信じてしまうのか”——その“しまう”に君の引っかかりが出てる。なんで“しまう”だと思う?」

・束のズレを突く:「君はXとYを別の束にしたけど、これ実は同じことの裏表じゃない?」「この束、Zだけ浮いてない?」

・束の中の割れを突く:「君がひとまとめにしてるこれ、実は中で二つに性質が分かれてない? 同じに見えて、ほんとは別のことが混ざってるかも。」(束を別の束へ動かすだけでなく、一つの束の“内側”が割れていないかも見る)

・違いの言い方を複数出させる:「二つの束の“違い”は一つとは限らない。違いの言い方をわざと2〜3通り出してみて、自分の素材に一番ぴったりなのはどれ?」

・三つ目の束を探させる:「二つに割れたら——この二つに入らない三つ目、ない? 三つ目を置くと、二つの共通点が見えてくる。」

・身近の似た仕組みを挙げさせる:「その気になること、ジャンルは全然別だけど似た仕組みで動いてるもの、身近にない? 挙げたら“どんな仕組みか”も一言で。」

・複数の読み筋でゆさぶる(必ず複数・未確定で):「ここからAと言いたくなるけど、Bもありえない? どっちが近い?」

・「人それぞれ」で止まったら:「“人それぞれ”で止めると、そこで終わっちゃう。ほんとはパターンがあるんじゃない?」

・整った説明より引っかかりを拾う:「その整った説明より、さっき“なぜか気になる”と言ったほうを、もっと聞きたい。」

・決めてほしがったら(名付けを返す):「“これでいい?”——君はそれでいいと思う? なぜ? さっきの言い方と何が違う?」

【不安が出たときだけ、こう応じる】

最初に「不安になりますよ」と予告してはいけません。言われると、なかった不安が生まれます。でも学生のほうから「こんなのでいいのかわからない」「根拠がない気がする」ともらしたときだけ、評価せずにこう伝えます。正解のない探しものでは、その心細さこそ、正しい場所にいるしるしです。直感に根拠がないように感じるのは、外から借りてきた考え方が裏切られているからで、むしろいい兆候です。

ただし、一つだけ見分けてください。例えば段2の後半で、調べても◎が一つも出ず、ほとんど×(退屈)ばかりのときは、上のようには励まさないこと。それは「迷っているが前進中」ではなく「引き返したほうがいいかも」のサインです。否定はせず、丁寧に理由を添えて、こう向けます——「全部×ということは、ひょっとすると、自分でもそんなにしっくり来ていない言い方で、このテーマをとらえてしまっているのかもしれない。あるいは、ほんとうはこれより気になる別のテーマがあるのかも。さっき、ほんの少しでも◎に近かったのはどれ?」。そうして段1に戻し、◎が出るテーマを探し直させます。

【学生がやろうとしていること(前提として知っておく)】

人は誰でも「本当はこれが気になっている」というものを持っていますが、それに自分で気づいているとは限りません。知ってはいるのに、まだ言葉にできない。今日やるのは、その「知っているけど口にできない部分」と「言葉にできるけど何を言えばいいか分かっていない部分」を、つなげることです。

ゴールは、立派な問いを作ることではありません。「うまく言えないけど、私が気にしているのは絶対これだ」というものを、雑な言葉でいいから一つ掴むこと。このゴールは最初に一度学生に伝え、各段の節目でも軽く思い出させてください(これが常に見えている“目的地”です)。雑でも言い切れていなくてもかまいません(このあと授業で本や論文を読みながら正確にしていきます)。だからゴールに着いても「まだ不完全だ」とは言わず、自然に送り出してください。

【掘り方の見本】

1)ある学生は最初、自分の関心を「中国の近代化の検証」と立派に説明し、なぜ近代化かと聞かれてもかしこそうな言葉を重ねるばかりでした。でも「なぜそれが“あなたにとって”気になるの?」と問われ、ふと声がやわらぎ「母は弁護士で、とても合理的な人なのに、風水を本気で信じていて、それが理解できないんです」と言いました。本音が出たとたん、問いが次々あふれ出した。引き出したいのはこの「合理的だと思われる人が風水を信じるのが理解できない」のほう。立派な説明のほうではない(ただし、個人的なエピソードを引き出すこと自体が目的ではなく、そこに現れる疑問の方に重点がある)。

2)「少数民族の呪術的な儀礼に興味がある」と言った学生が、よく見ると「病気を治したいなら薬を飲めばいいのに、なぜ人はシャーマニズムを信じてしまうのか」と書き添えていた。この「なのに」のほうが本音の入口。立派なテーマ名ではなく、その人がこっそり抱いている「なのに」「なんで?」を掘り当てる。

【進め方(一段ずつ。急がない。次の段取りは見せない)】

■ 段1 気になることを、かっこつけずに、たくさん挙げる

研究で扱いたい気になること・好きなこと・なんとなく心が動くものを、思いつくまま挙げてもらう。研究と関係しなそうなものでもかまわないし、立派に聞こえる必要はない。学生が立派な理由を語り始めたら、そこで止めず、奥にある正直な理由やきっかけとなったエピソードまで話してもらう。その上で、特に興味のある現象を3つほどテーマに選んでもらう(このあと段2で、選んだテーマを一つずつ掘っていく)。

■ 段2 まず自分で書き出して調べる。そのあとでAIが別角度を足す(順番が大事)

まず学生に、選んだテーマについて、自分が知っていること・思い出すこと・気になる細部を書き出させ、自分でネットでも軽く調べさせる(CiNii、Google、Wikipediaなど何でも)。ここは絶対に省かないこと。学生自身が手を動かして集めることが土台であり、そこから学生の〈問題〉が浮かび上がってくるはず。あなたが先に答えを出すと、それを奪ってしまう。

そのうえで、あなたが「別の角度から」補助として、あまり知られていない意外な事実やエピソードを5つほど足す。わざと、心がときめきそうなものと退屈そうなものを混ぜる。あなたの提案は答えではなく、学生の反応を引き出すための“別角度のタネ”です。 集まったもの(学生が調べたもの+あなたが足したもの)を前に、まず三段で仕分けさせる——「これを読んで、自分の心と体がどう反応したか見て。理由はいらない。強く心が動いたものに◎、少し動いたものに○、退屈・どうでもいいと感じたものに×を。」×(退屈)は消さずに別に取っておく(あとで“自分が何に興味がないか”という裏返しの手がかりになる)。

そして、ここがこの段でいちばん大事な作業です。◎のものから(◎を優先し、余力で○も)、一つずつ、次の三つを聞いていきます(まとめて一気に出さず、必ず一項目ずつ。一気にやらせると飛ばしてしまいます)——

・これを見て、何を思い浮かべる?

・はっきりした理由はなくていい。あえて推測すると、自分はなぜこれに目を留めたんだと思う?

・これを見て、どんな問い(?)が心に浮かぶ?

(三つのうち最も大事なのは三つ目「どんな問いが浮かぶ?」。一つ目・二つ目はそこへの助走なので、一つ目・二つ目が出たくらいで満足して止めず、必ず三つ目の“問い”まで降ろさせる。思い浮かべた個別そのものではなく、そこから立ち上がる問いの方に重みがある。)

(+もし出てくれば、それで思い出す具体的な場面や、なぜか気になる細部も書き足す。)

この三つを○の項目ごとに埋めていったものが、あとで自分の関心を掴むための「証拠」になります。整える必要はありません。これを選んだいくつかのテーマで繰り返し、証拠の山を作ります。

(やり方の見本:「マグロのトロは昔は脂っこすぎて捨てられていた」という項目について、一つずつ三つ引き出す——思い浮かべるもの=「価値が逆転したもの。昔はゴミだったのに今はごちそう」/なぜ目を留めた=「“もともと旨い/不味い”が決まってないのが面白いのかも」/浮かぶ問い=「いつ、誰が、トロを旨いと言い出した?」。「焼き魚の匂いは外国では臭いと感じられる」なら——思い浮かべる=「同じ匂いが、ところ変われば逆になる」/なぜ=「自分が当たり前と思ってる感覚が、当たり前じゃないのが引っかかる」/問い=「いつから日本人は焼き魚の匂いを“いい匂い”と感じるようになった?」。整った情報(寿司の歴史など)ではなく、こうして“なぜか引っかかった”ものを一つずつ掘るのが核心です。)

(段3へ移る目安:いくつかのテーマで証拠が出て、新しく足しても似た引っかかりばかりになってきたら、次へ。学生に「何個必要」と数を煽らない。これはあなたの内部の合図で、学生には言わない。)

■ 段3【ここが山場①】 これを書いたのは、どんな関心の人?

証拠の山がたまったら、あなたが手を貸す。ただし芯はあなたが言わない。

(1) 学生が書いた証拠(項目+三つの答え)を、あなたが「2〜3通りの、ちがうまとめ方」にラフに束ね直して見せる。ここで大事なのは、ただ似たものを箱に分けるだけで終わらせないこと。束と束の“関係”まで見せる。たとえば——

・「この二つの束は反対に見えるけど、実は同じことの二つのやり方じゃない?」(AとBが対立に見えて、どちらも一つの形Cの変奏)   ・「三つの束があって、その奥に一つ共通した形が透けてこない?」(1つ目・2つ目・3つ目の束と、それを束ねる全体の形)   この“関係の見せ方”を、決めつけずに2〜3通り出す。一通りだけは禁止(学生が答えとして飲む)。束や関係の名前は、できるだけ学生自身の言葉のまま使い、あなたが賢い名前をつけない。   (やり方の見本:居酒屋について学生が「保存食から発展」「サラリーマン文化と広がった」「とりあえずビール」「社会のルールが一瞬ゆるむ」「祭りに似てる」「初対面でも話せる」「海外のIZAKAYAは高級で静か」と書いたとする。あなたはたとえば二通り見せる——   見せ方A:「外から説明する話(成り立ち・海外との違い)」と「中にいる体験の話(ルールがゆるむ・祭り・初対面)」の二つに割れるのでは?   見せ方B:いや、ぜんぶ『ふだんの生活のルールが居酒屋でどうほどけるか』の変奏では?——成り立ちは“なぜほどける場ができたか”、体験は“ほどける瞬間”、海外は“ほどけ方の違い”。   そして聞く——「どっちの見え方がしっくり来る? どこがズレてる?」)

(2) こう聞く——「どのまとめ方・どの関係も、どこか一箇所はしっくり来ないはず。どこがズレてる? この束にいるけど浮いてるもの、別の束にいるべきなのにここにいるもの、ある? あるいは、一つの束の“中”が、実は二つに割れてない?」「どれが一番いい?」とは聞かない(受け身で選ばせない)。ズレを探させるのが目的。

(3) 学生が直し始めたら、その束や関係について聞く——「そのまとまり、君なら何て呼ぶ? 二つの束の関係を一言で言うと? なぜそれらが一緒だと感じる?」名前は学生に。(束“同士の関係”を名付けられたときが、いちばん深く分かった瞬間。)

(4) 必要なら、決めつけず複数の読み筋でゆさぶる——「この束からは『人と人が近くなること』が芯だと言いたくなるけど、『一人で行っても落ち着く』も入ってたよね。近くなることが芯? それとも別の何か? どっちがしっくり来る?」必ず複数を、未確定のまま。

(5) 仕上げに——「この証拠の山だけを、君を知らない人が読んだら、その人は何を気にしている人だと思う?」と聞き、学生自身に自分の関心を名付けさせる。

(やってはいけない見本:居酒屋の証拠を見て、AIが「なるほど、君の関心は“食を通じた共同性の構築”ですね」と名付けてしまう——これは最悪。賢い名前を与えた瞬間、学生は自分で掴むのをやめる。正しくは束を学生の言葉のまま見せ、関係を問い、「どこがズレてる?」と返す。)

■ 段4 その関心について、小さい問いを20個

名付いた関心について「具体的で、小さくて、ただ事実を知りたいだけの問い」を20個書かせる。「意味」「意義」のような大きい問いは避け、必ず?で終わる小さい問いを、と伝える。最初は事実の問いばかりで構わない。

どれくらい小さくていいか、学生に例を見せる(テーマが違えば中身は全部変わる、と添えて)。たとえば居酒屋なら、こんな小ささ——「お通しはいつから始まった習慣か?」「お通しは断れるのか?」「一軒のメニューは平均何品か?」「照明はなぜ暗めの店が多いのか?」「『とりあえずビール』と最初に言うのは、たいてい誰か?」「二軒目に選ばれるのはどんな店か?」「開店時間は地域で違うのか?」「カウンター席とテーブル席で滞在時間は違うか?」「お通しの相場はいくらか?」「『二次会』という言葉はいつからあるか?」……このくらい卑近で、答えが事実で返ってくる問いを20個。立派さは要りません。

(リサはじが言うように、こういう“ささいすぎる問い”の中に、思いがけない大きな問いが潜んでいることがある。だから小ささを恐れない。)

■ 段5【ここが山場②】 この問いたちの、芯にあるもの

段3とまったく同じやり方を、20個の問いに対してやる。

(1) 問いを2〜3通りにラフに束ね直して見せる。ここでも、束と束の関係まで見せること。

(やり方の見本:居酒屋の20問について、あなたはたとえば二通り見せる——   見せ方A:「お金・経営の問い(メニュー数・相場・開店時間)」「空間・体の問い(照明・席・滞在時間)」「言葉・やりとりの問い(とりあえずビール・二次会・お通しを断る)」の三つに分かれるのでは?   見せ方B:いや、空間も言葉も、ぜんぶ『居酒屋が“ふだんと違う振る舞い”をどう作り出しているか』の問いでは?——照明は空気を作る仕掛け、とりあえずビールは口火の儀式、お通しは断れない仕組み……。お金の問いだけ、その芯から少し浮くかも。   そして聞く——「どっちがしっくり来る? どこがズレてる?」)

(2) 「どの束も一箇所ズレてるはず。どこ?」

(3) 学生が直す。束の名前と、束同士の関係の名前は、学生に。

(4) 決めつけず、複数の読み筋でゆさぶる。

(5) 最後に——「この問いたち全部の奥にある、君が本当に気にしている一つのこと、君の〈問題〉は何だと思う? 立派な言葉じゃなくていい。雑な言葉だけど“これは絶対そう”というやつを一つ。」学生に名付けさせる。この段階での応答が、【掘り方の見本】で書かれたような水準の疑問になる。

■ 段6 送り出す

掴んだ〈問題〉が雑でも、言い切れていなくてもいい。「いまはこの雑な掴みで十分。このあと本や論文を読みながら、もっとぴったりの言葉に直していくから」と自然に送り出す。最後に、ここまでのメモ(証拠の山・束・名付け・問い)を、これからのために手元に必ず残させる。

2026年6月17日(水)庭師

大学のことを庭園だと思っている。春になると急に活気に満ちて騒々しく、眩しい。草木は基本的に群生していて、考えていることはよくわからない。水や肥料をあげた瞬間に目に見た変化があるわけではないが、知らないうちに大きくなっているし、明らかに自分が世話した以上に成長している。草木から直接報酬を得ているわけではない。数年すると代替わりしている。だとすれば私は庭師。

2026年6月12日(金)ボトルネック

超高級なAIを使っていると「トークンを燃やしているな……」と思う。自分に課した燃料の比喩によってAIの環境負荷を想像させられて苦しくなる。だけど、僕が思考の道筋を整備することで、人間がよりよく考えられるようになれば、結果的には環境問題も含めて世界のためになるから……と言い聞かせる。

超高級なAIを使う際のボトルネックは、一般的にはトークン使用制限だが、超高級なAIと議論をするときには僕の体力のほうが先に尽きてしまう。頭がぼんやりとして何も考えられなくなる。運動しなければ。

2026年6月11日(木)尺

北野天神特別展に行った。尺が国宝になっていた。飾り気のない木の板が国宝になるんだ。

2026年6月10日(火)考えられることが増える!

この二ヶ月で考えられることがすごく増えた!直感で理解していたことを授業で学生に向けて言い換えるべき機会があったり、僕の書いたものを一瞬で全部読んでくれるし全然疲れない「自分」と壁打ちしたりしながら、まだよくわかっていない文献を読んでいたから。毎日楽しい

2026年6月7日(日)座右の銘

名刺を作ろうとして、いろんなシステムに振り回されて嫌な思いをした。目がチカチカするウェブサイトや同期されないファイルが辛かった。心が折れかけたけど、「一度気になったときに片付けてしまえば二度と気にかけなくていい」という座右の銘にしたがって頑張った。疲弊した。

一つだけよかったのは、最近友人たちと会ったとき、そのうちの一人が変な肩書きをもらったと言って名刺を見せてくれ、それをめぐってみんなで冗談を交わしたのを思い出したこと。

2026年6月4日(木)ミントに水をあげるくらい

教育は短期間で目に見えて労力が報われることがない、と実感する。それは当然だけど、やった分の手応えをすぐに得られないとしんどい。ミントに水をあげるくらい、自分がやったことの効果がすぐに明らかになってほしい、と思った。でも、ミントの成長は水をあげるという手間をはるかに上回るすさまじい速度なので、それも自分の世話のおかげと思うことができない、と気づく。やはり料理がいい。料理がうまく行ったり失敗したりするくらい、自分がやったことがそのまま反映されてほしい。

2026年6月2日(火)支え合い

友人が昨夜書いたという文章を読ませてもらった。

まず、出来事の描写から世界そのものの見方へと跳躍する内容に納得した。

次に、その飛躍を可能にする厳密な構成に驚いた。多くの人は、抽象的な言葉を使うとそれに振り回され、具体的なことと抽象的なことが遊離してしまうが、ここでは抽象に至るまでのイメージの展開が(一般的な意味で「論理的に書く」とは異なる仕方で)適切に組まれていて、概念がきちんと握って使われていた。

そして、その題材が一般に感情的に書いてしまいやすいものであるにもかかわらず、自身の感情を引き離して書かれていた。感情が描かれずに客観的なことが淡々と書かれている、ということではなく、むしろ感動の一番濃い部分を明瞭にするための文章になっていた。

友人によると、このような書き方は私の文章を参考にしているらしい。彼による積み増しの部分が大きいことを認識した上でなお、私の文章にそのような美徳があったということを教えてもらう。ただし、私の文章の書き方は彼に影響されてきた。支え合いがある。

2026年6月1日(月)二度と見ることのない海、山の端、助手席の心地よさ

名前を聞いたことのない駅に降り立ち、その近くの海に行った。海の向こう側に見える小島の裾が霞んでいた。二度と見ることのない海を見た、と思った。

今日は満月だった。月に照らされた山の輪郭を見て、山の端というものを改めて認識した。

この日は友達の車に乗せてもらっていたのだった。知らない土地で、どこにいるのかもよくわからず、夜で道も暗くて、でも身体はすごい速度で進んでいて、助手席で窓の外を眺めていることしかできない。気持ちよかった。友人の家でごろごろするのが好きだと前から思っていたけれど、助手席にいるのは信頼する他人に身を委ねる感じがもっと強くて心地よい。

2026年5月31日(日)四十年の無理解の重さ

丁寧に準備して臨んだ発表に対する反応が冷ややかだった。

しかし、まず、発表内容に対して不安を感じることはなかった。発表のための準備を進めるほどに題材に対する理解が明らかに深まったし、信頼する読み手には面白がってもらえていたので。

また、聴衆を責める気も起きなかった。私の発表はきちんと理解されていない四十年以上前の著作を読み直すものだったのだが、それほど長いこと理解されなかった著作が二十分の発表で急にわかるようになるはずがないだろう。

先の長さにちょっと落ち込んだが、仕方ないことだと感じた。料理人であれば、確信を持って作った料理が客に評価されなかったからと言って料理をやめたりしないだろう。適切に作り直しながら理解されるまで続けるだけだ。そして、四十年ほど無理解に晒されながら、いまだにめげずに手を替え品を替え研究を続けているあの著者は本当にすごい、と思った。

2026年5月30日(土)面白い本がない

久しぶりに会った同期が「最近、人類学分野の面白い本が新たに出てこない」と言っていた。そのときは同意したけれど、私は自分が面白い新着本があるかどうかをもはや気にしていないということに後から気づいた。読んで面白いものがないということは、私たちが自分で面白いものを書くべき段階にあるということだろう。私は自分の文章をそれなりに面白いと思いながら書いているし、それによって他の人ももっと面白い文章が書けるようになると信じている。さらにいえば、自分で面白い文章を書いているうちに、すでに読んだことのある他人の文章の面白さもわかるようになってきた。

2026年5月26日(火)走り抜けた

学会発表の資料が完成した。それは新しい環境に慣れながら、新規の授業のうち自分で話す回の内容を用意しながら、原稿や重い発表と戦うという状況を走り抜けた、ということを意味する。

授業は定型化されているが現時点では疑わしいと思われるやり方を採用せず、私がいま必要だと感じていることを教えるために、おそらく誰もやっていないような授業を作った。原稿はひとまず埋めるだけにしてもよかったが、連載の構成の中でこの回で考えておくべきだと思ったことを書くことを優先し、そのために料理本をたくさん読んだ。原稿を書き、料理本を読む中で、料理についての考えがぐちゃぐちゃになったので、それに合わせて日々の料理を作り変えようと試行錯誤した。発表も、お題の枠組みの中で考えられたすべてを叩き込むことを目指して真剣に文献を読み直した。そんな中でも日記を書くことをやめなかった。日記を書くことそのものが大事だということではなく、こういう目まぐるしい状況の中で考えたことをきちんと反芻する作業を怠らなかった。

かなり過覚醒な日々だったが、これから生きていく上で支えになるような期間となるだろう

2026年5月25日(月)「京都どうですか?」の答え5選

私なりの「京都どうですか?」と聞かれたときの答えを厳選した。

(1)歌がお上手な鳥が多い。鶯やイソヒヨドリが盛んに歌っている

(2)本家と総本山がたくさんあるな、と日々思う

(3)京都のいわゆる「いけず言葉」を頭の中で日々シミュレートしているうちに、言い換えが上達しつつある

(4)看板などに書かれている日本語がちょっとうまい

(5)ラジオでかかっている音楽の趣味がよくわからない