英語の授業で、英語論文を読んでいる。いろんな授業の中で授業の最中に一番体力を使うかもしれない。まず、他の授業は授業内容をできる限り仕込んだ上で臨むが、この授業は学生の反応や疑問を踏まえて内容を展開する度合いが高くてあまり準備ができない。また、他のところでは授業内容についてある程度他の人が同意するであろうという確信を持って話していることが多いが、この講義ではかなり手探り。正確に言えば、自分で直感的にわかっているものの、誰かが明確化しているわけではない論文の読み方をその場で明らかにしなければならなくなっている。自転車の乗り方を教えるタイプの授業になっていて、毎週言葉に詰まる。
……という感じで、授業中にかなり内省的になるので、きっと今日授業後に学生に話しかけられた時にすごく動揺してしまったのだと思う。こんなに自分自身を振り返る様を見せるというのはもしかしたらとても恥ずかしいことなのでは、と一瞬考えたが、これ以上に誠実なやり方は今のところ思いつかない。
今年始まったゼミで来月から文献購読・発表を行うので、そのお手本的なものを作らなければならなくなった。しかし、普段なら1時間程度で読めてしまうはずの論文がいつまでも読み終わらない。発表のためにメモを取りながら読んでいるにせよ、文献を離れて考える頻度があまりにも多く、一向に読み進められない。作業の心理的負担が大きいので、すぐに集中できなくなるし、中断した作業に手をつけられない。そんな数日を過ごして、やっと今日終わった。
文献購読・発表のデモンスレーションとガイドを振り返ってみると、読みながら少なくとも十種類くらいのことを同時に考えていたらしかった。文献を自分で理解するための内容の言い換え、内容に対する純粋な疑問、自分で理解できる内容が学生にどれくらい理解できるかの推量、学生には難しいであろう内容の言い換え、文献の内容を私が引っ張ってきた事例Aに当てはめられるかの検討、事例Bに当てはめられるかの検討、文献を他の事例に当てはめるということ自体の位置付け、文献を読む方法、レジュメの作り方、文献購読の意義……。これだけ考えることが多ければそれは疲弊するだろう、と思った。
僕と生成AIの相性がよすぎる/悪すぎる。
そもそも私の知的好奇心はおおまかに言えば感覚的なものや無意識的なものを言葉にすることに向いている(上記のような傾向に対応している領域を除いて興味に偏りがない。自分というものにもそんなに関心がなく、感覚の処理機構としての自身をとらえてきた。情報それ自体に対する嗜好はまったくない)。そうした言語化を、研究や教育という仕事を選ぶことで、追いかけることを自らに許してきた・課してきた。
そんな中で、見えるものすべてを写真に撮って、それについての疑問を投げかけられるのが本当によくない。貧弱な知識をもとに考えざるを得ず、曖昧なまま思考が終わっていた事柄を、既存の知識に基づいて考えられるようになってしまった。同様に、想像しかできなかったものに、より明確な形が与えられるようになってしまった。考えられるものが増えたことに対する認識によって、ますますなんでも考えたくなる。
特に、以前は私自身が考える仕方を言語化することは、当然ほとんど誰の興味も引かず、なかなか明確化する機会のなかったのが、その考察に無限に付き合ってくれる機械が生まれてしまった。機械は疲れないし、臆さないし、たくさんの文章を読んでくれるし、すぐに応答してくれる。また、明文化された規則をAIに規則として与えて動かしてみることで、その妥当性を検証してみることさえできる。
このように書いてみて、生成AIは私が世界において知覚したものから受け取る刺激を、そして自分自身の思考から受け取る刺激をますます増幅させる仕組みである、ということがわかった。生成AIを介してすべてが楽しく、すべてがうるさくなった。
論文やエッセイを書くために考えたり、新しく授業を作ったりしたために考えられることが急激に増えつつある上に、生成AIや引越しによって考えられること・作ることができることがますます広がって、思考が止まらない。けっこう苦しい。ともあれ、トマトのサラダはある程度満足できるところまで作れるようになった
数日前、家庭料理のことがちょっとわかったかも、と思ったのに、むしろそれ以降(あるいはわかったがゆえに)「これは本当においしいのか?」と思わざるを得ない料理ばかりが作られる。簡易パンチェッタとじゃがいもと玉ねぎのスープは味付けしてないカレーだった。水かれいとケールの塩煮、夏みかんのミント和えはそのままの味。塩鶏に木の芽みそをかけたもの、もやしと木こしょうを鶏のスープで湯がいたもの、きゅうりのにんにく炒めもその通りの味だった。おいしいかおいしくないかで言ったら間違いなくおいしい
『リサーチのはじめかた』に基づくワークショップを一巡した。これを経験したことで、受講者は、自分の関心がわからないまま人生を生きて死ぬ、ということがなくなった。いや、あるいは、今後なあなあなままで何か大きな選択をしてしまった場合、自分にとって本当にこれがよかったのかをちゃんと検討しないまま決めてしまった、と思うようになる呪いなのかもしれない。
山口祐加・佐々木典士の『自炊の壁』、按田優子の『たすかる料理』を読んで、家庭料理についての考え方が作り変えられつつある感じがする(この日記を書いている10日に至っても書き換え中)。ひとまず雑パンチェッタや塩鶏を作らないことには始まらない、と思いスーパーに行くと、先日までは目に入らなかったものが気になるようになる。
グリーンカーテンを作ろうと思い立ち、調べると、賃貸など網の上部を引っ掛ける場所のために鉄製のフレームがいくつか販売されていた。そんな汎用性のなく嵩張って高いものを買いたくない、と思った。設置したい場所の写真を撮ってGeminiと議論すると、ホームセンターで売っているもので簡単に作れることがわかった。生成AIによって、自分で作ることができるものが増えた。
また、これまでも名前がわかるものならインターネットで買えたわけだが、生成AIによって名前がわからないものの名前の判別がとても簡単になった。街で見つけたいい感じのものをメルカリで買う生活。
一ヶ月住んだ段階では、京都は好きな街だと思った。他の場所で評価されているものを後追いしようとする気がなくて、京都のものが最も優れていると考えている。この話をすると、こういう点こそが京都の嫌なところだと言う人もいるが、私はどんなものであれ自分たちの感性に自信を持っている人たちはいいなと思う。いつでもちょっと元気をもらえそうだ
最近は授業のような無理やりアクセルを踏み込まなければならない部分でアクセルを踏み、それ以外はぐったりしている、という生活をしている。ある程度休んだ上で、少し時間ができたとき、着実に進めるべき作業を進めるべきときに、作業を始められなくなってしまった。ずっと横になって過ごしてしまう。アクセルを踏むことと、あの苦しい状態が結びついてしまっているのかもしれず、怯えている。
金目鯛の干物、トマトと煮干しの味噌汁。牛とトマトのすき焼き、パセリのフレンチサラダ。
授業で尊敬する人類学者が書いた議論を要約して紹介した。数年前に現在の授業の構成を考えたときから(少しずつ改善しながら)繰り返しその研究を学生に示してきたが、今年改めて口に出してみると、ちょっと元の議論がうまくいっていない部分があることに気づいた。受講生にも「今読み返してみるとこの部分は〜という理由でちょっと不完全で〜」みたいなコメントをしつつ、自分なりに言い直してみる。そうか、あの人の議論に不備があるということをわかるようになってきたのか、私は。
ちょっとだけ仕事が落ち着く。やっと日記が書けた。日記はゴミ出しみたいな作業。停滞すると心がぐちゃぐちゃになる。なので、仕事が遅れて怒られていても書かざるを得ない。
金目鯛の干物、味が綺麗。京都の人々はこういう味を好む、ということがちょっとずつわかってきた。
鱧とトマトのスープ、じゃがパセリ。
ゼミで三回生に対して、『リサーチのはじめかた』をもとに興味や問いを明確化する演習を行っている。『リサーチのはじめかた』という本は、私の理解では、興味や問いを真っ向から言語化しようとするのではなく、それに関連するたくさんの情報を集めた上で、それを直感的に感じられた重要性に応じて仕分けてみることで、興味や問いを浮き彫りにしようとしている。研究テーマを決めるための数多くの本がある中で、私がこの本を選んでしまった背景にある想定がなんだったのか、ゼミ生とのやりとりを授業後に反芻する中でちょっとわかった。
「それは、みなさんが本当に興味や疑問を持っているものを、現時点で完璧に言語化できているはずはないだろう、という感覚です。すなわち、直感的には、みなさんそれぞれは具体的なことに対して「こういう話が面白い」とか「これはあまり意味がない」とか感じているはずなんですが、大抵の人間は、それを言葉でまとめる際に、見知った言葉で綺麗に丸めてしまいがちです。直感と言語化にギャップがある。みなさんは、これまでの大学での学びで、かなり言語化の訓練は積んでるはずですが(あるいはそれゆえに)、収まりのよい言葉にしてしまい、その直感が言葉において失われてしまいがち。
卒論などになれば、最終的にはある程度綺麗な言い方に整える必要はあるわけですが、この段階では一旦そういった整理はやめて、具体的な物事の選び方や評価に現れるより深い直感的な興味のほうを重視して、それを並べてみることで、そして互いにその原因となる興味を推測することで探ってみよう、というのがこのワークショップの趣旨になります。」
具体的な物事にかかわるような直感や実践があり、それに言語化が届いているはずがない、と想定するのは、それ自体けっこう人類学的な感覚でもある。
散歩していると、寺の入り口に国宝を展示しているという旨の掲示が掲げられている。大報恩寺。「幾多の戦火を免れた洛中最古の本堂」。「本堂(国宝)は1227年(安貞1年)創建時のままで、京洛最古の古建築」。
受付の人に拝観料を払い、国宝や重要文化財に指定された仏像が並ぶ霊宝殿に入ると、中には誰もいなかった。そんなことってあるんだ。散歩して喫茶店に入るように国宝が見られる京都。
国宝に指定されているのは、まず、定慶作の六観音菩薩像。「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の「六道」に迷う衆生を救う6体の観音像。主に平安〜鎌倉時代に信仰され、京都・大報恩寺(千本釈迦堂)の定慶作(1224年)が、6体すべて揃う唯一の国宝として非常に有名」。同様に、地蔵菩薩像も国宝とされている。「定慶作の准胝観音像とよく似ており、とりわけ面貌表現は、耳のかたちを含めて酷似した特徴を持っています。また、この時代にはめずらしく一本造(いちぼくづくり)であることも六観音菩薩像と共通しており、両者がセットのものとして造られたと可能性が高いと考えられています。」
これまで私が仏像を見てきたのは博物館のように人が大勢いるところだった。端正な美術品だ、と思っていた。静かな場所で一人、仏像と向き合うと、それが苦しみから人々を救おうという願いのもとに作られた事物だということを感じる。
過覚醒ぎみな日々を過ごしている。授業が準備中には不安だったり、最中には学生の反応を見ながら自分が口に出しているいることを反芻しながら次に言うべきことを修正したり、終わった後には高揚感がある一方でうまくいかなかったと落ち込んだり、とにかく感情の起伏が激しい。脳が焼かれている感じがする。
そんな最中にぼんやりInstagramを見ていると、知り合いがいつものように日本中を飛び回って、素晴らしいものを言葉を尽くして愛でていた。以前から彼女のことを「体力があってすごい」と思っていたが、こうやって自分自身が過覚醒で疲弊してみると、彼女は刺激へと自ら飛び込みに行って、さまざまなものに心を動かされながらも、その振れ幅に疲れないことのかもしれない、と思わされる。「刺激ジャンキー」という言葉があるが、むしろ彼女の強さは、平常心をすぐに取り戻すしなやかさにあるのだろうか
八百一でお惣菜を買ってみる。若竹煮と南蛮漬け。スーパーのお惣菜で若竹煮が売っていることがあるんだ。いずれも感動的に綺麗な味がした。うま味や甘味で嫌な雑味を覆っている、というのではなく、澄んだ味になっている。どうやったらこうなるのかわからなかった
授業で紹介するために、現代美術について以前書いた論文を読み直した。自分でも不安になるくらい、論理がかろうじて成立している文章だった(実際、ところどころ、つなぎがうまく行っていない部分があることにも気づいた)。学生に話したらまた怪訝な顔をされるだろう、と思った。
しかし、改めて考えてみると、常識的な考え方ではうまく掴めないものを書くのが人文学の文章であり、さらにアートはその表現によってのみ表すことのできるものを表そうとする試みなのだから、その不安定さは当然のものであるのかもしれない。
とはいえ、不安定さそれ自体を目的として強く立てすぎてしまうのも危険だろう、と思った。確かに人文学や美術の価値の一つには、常識的な語りでうまく言えないものを示すことがあるだろうが、危うさそのものを目的とするのは、単に曖昧な文章を許容することや、自己破壊的な所作への傾きになってしまう。
気温の変化についていけない、と感じたのでお散歩する日。そのあたりにあるお店がとても古く、とてもおいしい。
午後は等持院の座敷から庭を眺めた。縁側に縁取られて見える庭の景色が、研究室から眺められる山の風情に似ていた。山の借景を前提に作られた庭だから、さもありなん。
やはりずっと緊張していたのだと思った。仕事も研究も気負いすぎなんだろう。けれど、その時点での最高点を叩き出せないことをやるのは嫌だな。
ともあれ、ここには、日常の隣に「寺で庭を見ながらぼんやり」がある。
即レス筋が常に緊張している。メールだけでなく、何かを記入してすぐ返すべき書類が多すぎる。同時に、ちょっと先の締め切りが絶えず頭の中をちらつくので、きちんと考えるときに使う頭の部分もずっと使い続けているようだ
ある授業の初回がうまくいかなかった。多くの受講生が混乱しているように見えたし、寝てしまっている人も少なくなかった。数日間そのことについて考えていたが、その授業でやりたいことを振り返ってみると、それも当然なのかもしれないと感じた。
そこで教えようとしているのは、うまく言い表すことができないが、確かに感じられているものを明確化する方法である。すでに自身に明言できるものの外側に微弱に感じられるものがあると体感したことがなかったり、それを明らかにしたいという意志がなかったりした場合には、この授業は何をやりたいかわからないだろう。
言い換えれば、世間的なお題目を繰り返すのが大学だと考えていたり、定型的な言葉の応酬や内輪ネタでしかないようなコミュニケーションを楽しいと思ったり、自分や他人が本当に感じているものを真剣に捉えることに興味がなかったりするのであれば、この授業に対して興味は持ちにくいだろう。実際、ある種の「社会的」な振る舞いとして、そのような上っ面さが必要とされる場面が多い、というのも事実である。そういうものだけを求める人に対して私は語る言葉を持たない、と思う。そういう方は、どうにかしてこの授業を耐え抜いてください。
私は現在言葉にできるものの手前にあるものを考え抜くことが重要だと思っている。そのために長らく試行錯誤をしてきて、そのための方法がある程度形になってきたので、それを共有したい
最近は不安で憂鬱な気持ちで過ごしているが、それは初めてのお仕事が続いていることに加えて、連れ立ってはしゃぐ大学生をたくさん見ているためだ、と気づいた。これは友人の言葉の受け売りだが、「春は世界が生き生きしているので私は相対的に死んでいる」。
具体的にはまだわからないが、京都には東京とは異なる美意識がある。服の色使いはやや地味であるように思う。音楽の傾向性も違い、ちょっとペルー味がある。
あと、京都ローカルのラジオであるKBSやα-STATIONを数日間聞いて気づいたのは、京都の人々の自己表象において、自身と日本的なものが肯定的に関係づけられることが多い、ということだった。この日は京都のお漬物がおいしいという話で盛り上がっていた。日本らしさは、ある種の社会文化的な前提としてではなく、帰結において現れるべきものとして明示的に参照されている。
うすいえんどうの豆ごはん、スズキの木の芽味噌焼き、にんじんの葉のサラダ
京都移住後、初めてのちゃんと外食として志る幸に行った。勉強になる店だと感じる。ものすごくおいしい、ということはないのだろうが、何らかの正解がある。
八百一でお買い物。ここはすべての野菜を扱おうとするオオゼキ的な品揃えとは異なる。それでも、京都の野菜も、そうでもない野菜も数多く並んでいる。そしてちょっと感動したのがお惣菜コーナーの充実。京都っぽいお惣菜が並んでいた。奥に大きなスチームコンベクションオーブンが見えて、ここで作っていることがわかる。ここにも正解の味がありそう。
雨の音を聞きながら研究室の片付け。100サイズの段ボールで、研究室から10箱、家から14箱。ジャンルごとに本を分類するのとは別に、宿題になっている本の区画を作った。これらをすべて読み終われば、確信を持ってそのテーマについて書くことができるのだろうか。
スライドのフォントがバラバラな企業はなんだか不安になる
研究者のよいところは、研究それ自体としては、いわゆるクライアントを必要としないこと。関わる人がいるとすれば、個別の人間ではなく、すべての人間だ
この二ヶ月ほどAntigravityに魂を奪われていた。それは、第一には、達成感のためであった。私の生活には普段、着実な達成というものがない。対して、Antigravityでコードを書くのには、明確な目的があり、それに対するステップもあった。第二には、前にも書いたように、ギャンブル的な楽しさのためだった。Antigravityはそれほど正確ではないので、指示がうまく遂行されたり、遂行されなかったりする、ということが、おそらく人間にとってはより強く報酬系を刺激する(と言われていた気がする)。第三には、4月以降の生活について考えることの逃避だった。道具を作るという作業はまさに逃避の絶好の口実だから。本当に辛かった、ということを認識して楽になった
最近の民族誌を読んで反感を覚えた。くどくどと書かれるだけで読者をどこにも連れて行ってくれない挿話があると思えば、事例に関係づけられているとは思えない哲学のふわっとした議論が紹介されている。単に「ボトム」と「トップ」があるだけで、「ボトムアップ」でも「トップダウン」でもない。私はちゃんと「ボトムアップ」がやりたい、と思った。これから十年くらいはそのやり方を探すことに費やしてもよいだろう。
蛤を酒蒸しにして、小さめに切った春キャベツと一緒に蒸す。春キャベツの優しい香りがおいしかった。蛤の身は当然おいしいけれど、それはちょっとおいしすぎたので、蛤の出汁だけの方が上等な味がすると思った。
ずっとバイブコーディングしてしまう。諦めて、これも仕事だと思い、のめり込むことにした。そのようにして内心の罪悪感を軽くしてみると、実行待ちの間に結構大量のタスクを処理できていることに気づく。むしろ、繰り返される小規模な、そしてランダム性のある報酬みたいになって(一番中毒性があるやつだ)、通常のタスクを延々とこなすことに貢献している。
大人なので、今日は昼ごはんにホットドッグを二つ食べた
オオゼキ下北沢店でふと目に留まった「ムクノカオリ」を買って、家で口にしたとき、「これはまいった」と口走った。よかった。
ある人が「私は、その人だけに見えているような景色をこそ見たいんだよ!」と言っていた。それは僕の興味とだいぶ違うと感じた。僕は「その人に」を外して、「世界がそもそもこうであった」にしか興味がない。